手代木正太郎展
「ももんが」


中本誠司個人美術館東館
2001.8.6(月)〜8.19(日)
午前10時〜午後6時まで(最終日午後2時まで)

全作品を見られます。
フォトアルバム




怪会談  このたびは手代木正太郎展「ももんが」においでくださいましてまことにありがとうございます。
 この展覧会は私の高校時代の全作品に大学での作品数点を加える形で構成してあります。
 高校時代、思えばそれは自分自身の絵画表現の黄金時代であったような気がします。それは確かに未熟な時代ではありましたが、そこには若いエネルギー、 絵画に対する純粋な情熱が存在しました。
 ここに今さらのように、未熟なこれらの作品を発表するのは高校時代の自分に対する一つの区切りであると同時に、今後新しい表現へと旅立つ自分自身への凱歌でもあるのです。
 それではごゆっくりご覧ください。

手代木正太郎




「ももんが」の経験、建築性から

大久保賢志      

〜学校〜 「人間」存在は構造化作用の緩やかな波間に、時として、荒ぶる波に浮かび漂える存在であるが、そのことをわたし自身が本能的に感じるのは、実に異形絵画との対峙に尽きる。 中心的な精神領域において、内部に対する外部としての周辺空間の不安定性は、凶兆を想起させることで認識世界の体系的な構造化を促しているのである。 わたしたちの世界認識の方法は、遍く言語活動に依存しているが、構造化処理を施された認識対象は、それぞれテクストとしての諸構造を階層的に保持しているから、 その面では、絵画は既成構造の枠内に、更なる諸構造の構築を充足させることで成り立つ体系であると言えよう。手代木正太郎氏描くところの絵画空間は、 逸脱を軸柱とした文学的テクストの内包をよほど感じさせるが、少なくともわたしには、伝統的テクスト以外の、例えば昼闇色調の快楽とか、活性化する異形のイメージ、 おそらくは豊饒の葦牙をつまびらかに嗅ぎ取ることができる。それらが痙攣的な畸形秩序と、絵画を解体するに十分な批評の為の有効性を持つに至るかは、それはまた別としても。



 彼の絵画空間に充満する「ももんが」とは何か、ひとまず民俗語彙としての「モモンガ」と分離させて、それは言語的に見れば極めて純粋な、日本の風土に暖められた妖怪観念になるだろう。 もしも根源的な必要性の観点からのみ捉えるとすれば、「妖怪」存在は、人間が現実生活の生を経験認識する上で、外在する経験的要素の影響によって発生する、 認識世界の内部からの否定的運動を転化的に回避することで、生の認識を再構築するためのものとして、言うなれば自我保存の原理に基づいて要請された概念であるが、 理性によって構築された「妖怪」存在の説明形式の不用は、ほぼ直接的に、「妖怪」存在に厳格な道を踏み歩かせる結果をその意味とする。認識構造から見える経験説明形式的な「妖怪」存在は、 「妖怪」という人為的観念としての海洋の、ひとつの寄港地にすぎないことは、当然の事として理解できるだろうけれど、「人間」理解の観点においては、人間と同時に発生した意味で「人間」 存在と不可分の概念である。否定的概念におけるベクトル価の移行に伴う方向性の相違によって、全ての「人間」の行為が収斂されるならば、先の必要性の原理から脱却して伝達される、 経験説明形式外の「妖怪」存在―テクスト化の段階かテクスト化された「妖怪」存在は、同様に、「人間」理解における文化的(向上的創造の産物)な概念として普遍的な 「人間」の理解を可能にしている。モモンガという民俗語彙は、このテクスト化の段階で消費された概念である。日本という限定的な空間のなかで消費されたことに意味があって、 それは妖怪の呼称とその鳴き声、つまり言語と音声のシステマティックな関係性そのものが伝達される言語現象として解釈されよう。



〜電車〜 妖怪記号論において、観念から抽出される「妖怪」は、人間の世界認識体系においてのひとつの記号に過ぎないから、認識世界の部分的な位置関係を鳥瞰する認識として、妖怪論は記号の位置する軸内、 軸外の全ての領域の包括を目的としなければ成立しない。つまり妖怪論は、「妖怪」として認識上捉えられ得ると判断される全ての存在を対象としていて、「妖怪」の認識内での無制限的な範囲を網羅しながら、 諸々の方法理論に即した可能性を多角的に測ること、累積することによって、共通認識にある程度の普遍的な固定化を試みようと考える。基底としてある意思に依る観念―主体となる妖怪観念とそれに 相互するもので、思考過程の力点移行に伴って時として主体となる他観念(アニミズム、神観念、動植物観念など)、及び主体との影響関係が考慮される傍流的観念 (形態に関する固定観念、政治的イデオロギー、群集の観念形態などが含まれる)―これらの観念の作用と、それに相関する人間意志間の言語伝達に関する多様な現象を、 可能な限りにおいて敷衍探求していくことが望ましい。示された観念の作用と人間意志間の言語伝達に関する現象とは、人間の全行動体系と文化的活動体系の全てを意味しているもので、 即ちこれを歴史認識としての「人間」と規定しても同様である。観念の主体として「妖怪」を問うこと自体は、主体性の継続的な安定を意味するものではなく、むしろ多くの場合、 主体性が意味へと埋没していくことを促すものである。主体がニュートラルな位置や極位置にある場合でも、妖怪論において問題となる観念の主体性は、 かならず「妖怪」の存在であることを普遍に理解しておくことにする。



 この場合において、言語と音声の関係性は、意識の深階層レヴェルに古い形の妖怪観念を保存していると理解しなければなるまいが、それ故にモモンガとは、どうやら妖怪の本質的断片を、 言語として表わし得る魅力的な語彙であるとともに、専ら詩的情緒を漂わせる民俗語彙のようである。寺山修司が幼少時に唄ったことで知られる子守唄に、 「ねろうじゃ、ねろじゃ、ねた子ェェ、ねねば山からモッコくらね」というものがあるが、この境界的装置のなかに見出されるモッコと云う、どうかすると不条理にみえる存在も、 モモンガと同系列の民俗語彙である。寺山は社会的機能面から、日本的な就眠儀式としての類感呪術性をあからさまに求めて、この子守唄を考察しているが、語彙に注目して、 いざ観念の詩学的タピストリィを紐解いてみると、モモンガ・モッコ・ガゴジなど、その詩情的語感の与える空間の変容性は、秩序を鈍色の不安要素で包み込むことによる「非日常的空間の形成」などの、 単純な性質におおよそ表わされると言って良い。多少のところ屈折させれば、あらゆる母性に向けられるアンビヴァレントな感情に相対する遊戯空間の形成、すなわち誘拐や神隠しを象徴とする母性の不在、 手の届かない空間などを即興的に孕むこともできよう。



〜ごみ〜 またモモンガを形而上的記号と捉えると、「非人間」としてのモモンガの必要性も考えられる。最冒頭の命題を基に「人間」は、「人間」存在が全認識領域の固定化を終極的位置として、 安定位置に至るまでの渇望と過程をその原動力と設定する自動人形であると、仮に定義してみよう。「人間」存在が、超越的存在を模範として活動する上で、「人間」を模倣して 「人形」を造形するという行為を試行したことで、初めて「人間」となり得る可能性を獲得することができたと過去時間的に第一仮定する。本来「人形」に託された存在理由は、 記号化された禍を付加される呪物としての機能であるが、それはまた容易に「人形」に超越性を仮想することを意味する。これを現時間的もしくは空間的な第二仮定とする。 時間と空間は認識による固定化を好まないから、故に認識は空間的な時間的な拡張を含みながら、循環的な構造化作用を見せはじめる。「人形」に超越性を認めることで、 「人間」が「人形」を模倣するという初期現象が発生することは、一側面的には、両者の境界が曖昧になることを示しているが、のみならず「人間」であることを恒常的に明示しなければ、 「人間」は「人間」領域に至らない、ただ「人間」になり得るという条件をぶら提げた自動人形であることをも示している。さらに自動人形が「人間」であるためには、 異形の「非人間」を想定しなければならない、倫理的疑題の空間領域には触れないような、秩序と畸形秩序の関係が成立することで、ようやく自動人形の見えないゼンマイは巻かれるのである。



 考えると、絵画空間内の「ももんが」には、既成の日本的な妖怪観念には必ずしも拘束されない、秩序と構造を形成する可能性を含むことが、 わたしには想像されるのである。妖怪観念は共同体の土壌のなかで、それなりの時間的経過と伝播状況に則したテクスト化が行われることで、共通認識化されたコードとしての 「妖怪」を成立させる。ところが手代木氏は、還元作業の絶望的に困難な、現時点では疑わしいともいえる芸術という分野で、妖怪観念のテクスト化を向上的創造のもとで強行しているのである。 彼の絵画空間の表層が一見して、「交通」と「停滞」に分類できることは、彼自身が創造性の伝達を自己批評的にあらわしている、自由意志的な表出現象のひとつに他ならない。 「ももんが」という概念は、テクストの諸構造として分析的に解体される時、既に妖怪観念における脱構築の洗礼を間違いなく受けているのである。



純粋な妖怪観念は、今となっては時間の対立の内にしか存在しないのであるけれど、絵画空間における「ももんが」は、あくまで統一的な絵画空間内の、ある程度まで都市化された、 分裂症的な多面性の現代的空間のなかで、何処にも存在しないモダニズムを謳歌する様子を、ほとんど異形の総体的な概念として刻印しているのではないか。もう少し詳しく言えば、 現代という性質がある空間と時間にあって、それは常にモダンであって実際はモダンではない、例えば明治期のモダン成立から遥かに遡って、百鬼夜行の跳梁する都市的空間から現代を抽出する行為、 その結果として横たわる複数のモダンの残滓によって組成される何者かの、顕在化され得ない影のようなものが「ももんが」ではないか、とわたしには思えるのである。